「クリスマス‐マリアの讃歌」 ルカによる福音書1章39節~56節

2021年12月8日 「聖書の学びの会」
法亢聖親牧師からのメッセージ

 クリスマス‐マリアの讃歌    ルカによる福音書1章39節~56節

「『主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。』マリアは言った。『私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めて下さったからです。ご覧ください。今からの後、どの時代の人々も私を幸いなものと呼ぶでしょう。」(ルカ1:45~48)
 み使いの驚くべき語りかけに、マリアは「どうしてそのようなことが起こるでしょう」と応えました。「なぜ」という理由ではなく、「どのようにして」という方法を尋ねたのです。神さまのご計画はどのようにして実現するのでしょうかという信仰者としての素朴な質問をしたのです。       
受胎告知を受けたのちマリアは、南ユダにある叔母のエリザベツを訪ね、そこで三か月間滞在しました。婚約者のヨセフがマリアの妊娠を知って葛藤をし、み使い(マタイ:天の使い)のお告を聞いたのはこのころだと思います(マタイ1章)。
 なぜマリアが旅立つ前にヨセフに説明をしなかったのでしょうか(説明したかどうかは、不明)。このようなことは、たとえ信仰深く純潔なマリアが説明したとしても到底納得してもらえるような事柄ではありません。その証拠に、間接的にマリアが遠い親戚のところに(黙って)行ったことを知ったヨセフは、み使いのマリアが身ごもっているとの告知を受けるまで悩み苦しみ葛藤したのです。だがヨセフは、み使いの告知を受け入れ、自分の決断で自分たちに課せられた重い責任(自分の十字架)を自覚して引き受けたのです。
 さて、ザカリヤ夫妻のもとに滞在していたマリアは、神さまの不思議なご計画に感動して、讃歌を歌います。現在では、マリアの讃歌(マグニフィカット)として様々なメロディをつけて世界中で親しまれています(ルカ1:46~56)。ザカリヤの讃歌と共に自分たちの(人間の)理解を超えた神さまのお取り計らいの不思議さを歌った讃美ですが、大きな違いもあります。ザカリヤの讃歌は、宗教的指導者が歌ったにふさわしく、旧約聖書中の様々な記述を踏まえて、神学的なアプローチから始まり、後半で自分たち夫婦のかかわる事柄が表現されています。それに対してマリアの讃歌は、逆に、自分の身に起こった出来事から始まり、そこからの考察を深めて、後半に至って、大きく普遍的な神学的原則を引き出しています。
 つまり、ザカリヤの讃歌が演繹(えんえき)的な歌であるのに対して、マリアの讃歌は帰納(きのう)的な歌であるということです。 
― 参考:演繹法とは、普遍的原理から個別の結論を引き出す方法です。帰納法とは、現実的な目の前の出来事から普遍的な真理・原則を引き出す方法です。―
 マリアはまず、神さまを讃美し、その理由として「卑しいはしため」にすぎない自分に与えられた神さまの取り計らい方を「幸い」と表現しています。「卑しいはしため」というのは、社会的立場の表現というよりは、主なる神さまとの関係での「しもべ」にすぎない自分の立場を自覚しての表現だと思います。次に「力ある方、私に大きなことをしてくださった」と納得して、処女である自分に課せられた役割を確認したのです。後半は、自分個人の体験を踏まえて神さまのお取り計らいの普遍的な原則に進みます。神さまは人間的な権威や順序・序列を逆転させることのできるお方です。イエスさまの母となったマリアのこうした神理解(かみりかい)は、やがて主イエスの教えに受け継がれていきます(マタイ5章の惨状の説教の冒頭の「幸福の指針」など)。           

祈りましょう。

 天の父なる神さま
 マリアの静かで堅実な信仰の中に、人間の理解や判断(人智)を超えた特別な原則が神さまのうちにあることを確信する思いが宿っていることを知りました。私たちも人間の理解を超えたあなたのお取り計らいを信じます。  御子のみ名によって祈ります。 アーメン 
                                  

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